ヨルダン 体育
自己プロファイル
派遣国:ヨルダン
隊次(具体的な派遣期間):2019年度2次隊(2019年12月~2021年3月)
協力隊派遣前の専門学校・短大・大学(所属学部やゼミ):玉川大学教育学部教育学科。福祉系ゼミ。
応募時の資格:小学校一種、幼稚園教諭
職種:体育
配属先:パレスチナ難民局
活動対象の人:現地小学生
要請内容:現地教員が担当している体育授業を補佐するとともに、授業内容改善のためのアイディア提供や助言を行う。またグループ活動として、他校で活動する体育JV(ボランティア)と協力して、教員を対象としたワークショップの開催や、複数校の生徒が参加するスポーツ大会の企画・実施を通じて、現地教員の技能や指導法の向上を図るとともに、生徒の健全な情操育成を促進する。
自己紹介
富士山や八ヶ岳、南アルプスといった雄大な山々に囲まれた山梨県生まれ育ちの清水です!
私は大学時代、友人と訪れた旅先でストリートチルドレンに物乞いをされ、何もできず「ごめんなさい」としか言えずその場を立ち去った過去があります。
当時、何をしてあげるのが正解だったのか悩み、蟠り(しこり)が残る経験をしました。
帰国後、ある一冊の本を読み進める中で、最貧国で活動する青年海外協力隊の男性隊員の苦悩と葛藤(現地での活動や協力隊になるまでの苦難)がまとめられた一部始終と出会い、
旅先でずっと気になっていた彼ら(ストリートチルドレン)に何かしらの生きる希望や楽しさ、喜びを届けることができる協力隊への参加に踏み切りました。
大学卒業後は、半年間地元山梨県で小学校の教師をし、その後JICA海外協力隊に参加しました。
私の任地は、中東にあるヨルダン内のパレスチナ難民キャンプで、
体育授業がおこなわれていない現地の子ども達に、
体育授業の実施と授業のさらなる向上を目指して体育教師として活動していました。
元々は、英語圏を希望していたのですが、
第三希望にも入っていないヨルダンでの派遣が決まり、
ヨルダン?中東?紛争?など少し危険なイメージが最初頭をよぎりました。
そんな正直な思いもありつつ私は、
中東のヨルダンに行く覚悟を決め2019年12月に渡航する事になったのです。
まずはじめに
①あなたにとってのJICA海外協力隊とは
人生を面白くするきっかけに過ぎないと思います。
※サッカーのプロを目指すぐらい一生懸命やっていて、
それを諦めて教師の道を目指した時に、
今後何十年と教職一本でやっていくだけではなく、
みんなと同じ道を行くよりは、
「違い」を面白がりたいなと思いました。
協力隊は人生のネタになる。
協力隊での経験は人生のアクセントになる。
そんなきっかけを作ってくれるものなのかなと思います。
現地でのことについて
②現地で活動して良かったと思った瞬間
瞬間ではないですが良かったこととして、
アフリカ等に派遣された隊員より生活水準がある程度高く、
活動に直ぐに専念出来ることが上げられると思います。
SNS等で同期の投稿を見ていると、
活動以前に電気や水の問題で、
その日を生きるのに精いっぱいなように感じましたので。 。
ヨルダンの僕が住んでいた家は、
ホストファミリーが二階に住んでいて、
一階に自分が間借りしており、
生活にはあまり困らず、活動に専念できたところが良かったところだなと思います。
あと、イスラム教圏(中東)はなかなか普段旅行とかもいけないので、
そこに行って、
現地の文化だったり食事だったりに触れられたことは良かったなと思います。
③活動で苦労 or 辛かったこと、どう乗り越えたか
正直自分は四カ月しか滞在できていなくて、うち一カ月は語学研修でした。
アラビア語は国ごとに方言が分かれていて、
例えばヨルダンならヨルダンの方言、
エジプトならエジプトの方言があります。
一カ月の語学研修ではヨルダンの方言を習うのですが、
訓練所で習った標準語と全く違って、そこが大変でした。
一カ月間の研修が終わった後、任地に行くと、
その学校がちょうど休みになってしまい、一カ月間は丸々活動が出来ず、
ヨルダンに来て三か月目で活動が開始でき、
四カ月目に自分の授業を持たせてもらえるようになったところで、
コロナウイルスの影響で帰国になってしまいました。
④要請内容への取り組みとその後
一カ月間の首都での語学訓練で、
生活に必要な言葉はある程度できるようになって任地に行くと、
自分の職種で使う体育の専門用語等がアラビア語で話すことが難しく、
子供たちに上手く伝えられなかったりしました。
そこで自宅で絵を描いて、子どもたちに見せたりしながら、試行錯誤しました。
またコロナウイルスによる活動中断で帰国になってからも、
常に任地の校長先生とは連絡を取りつつ、
何か間接的にでも出来ることはないか考えていたのですが、
ネットワーク環境も不安定な現地の状況も考えると難しいですね。。
なので四カ月間でも海外に行ってきた経験を、
地元(山梨県)の子どもたちに還元しようと、
地元の小学校で働かせてもらい、開発教育をテーマに授業をしていました。
同期隊員とZOOMをつないだり、
ヨルダンの調整員の方に協力してもらいビデオ出演等の授業をする中で、
「相手にとって本当に必要な支援は何なのか」
「相手の立場に立った支援が必要」
という言葉が子どもたちから出てきて嬉しかったです。
⑤要請内容外での取り組みと展望
ヨルダン大学の学生に、奨学金を融資する隊員限定の有志団体に所属していて、
奨学金の元手を集めるために、
在ヨルダン日本人を対象にしたヨルダン観光ツアーを行い、
隊員の勤務する博物館や植物園みたいなところにも行ったりしました。
そしてその参加費を、奨学金の元手にしたりしました。
⑥現地での活動や生活(隊員生活)で得たもの
アラビア語もしかりですし、アラビアの友人。
難民に関する生きた知識。
また人脈もです。
日本に帰国後は、在日ヨルダン大使の方にもお会いしたりしました。
もう一つは、「違いを面白いと感じられる」ようになったことです。
日本に住んでいると当たり前のことが外国では違うので、
初めはフラストレーションが溜まったりもしました。
ですが現地の人たちの考え方や文化に触れて、
違いをフラストレーションに感じるのではなく、
面白がるという考え方に変わったのかなと思います。
⑦新卒だから出来たと思うこと、逆にもっとやっておけば良かったこと。
物の捉えようですが、
日本でやってきた技術や知識に囚われずに出来たのかなと思います。
ですが逆に知識や技術がない分、
自分で調べてやらなければならないことが多く、
その点は大変でした。
ある程度結果は求められているのかもしれませんが、
新卒だからというスタンスで自分はいたので、
気は多少楽だったのかなと思います。
協力隊全般について
⑧訓練所での感想
良かったこととしては、運動会を開催できたことですね。
二本松訓練所に入る前に、派遣前技術研修があり、
そこで会った仲間たちと再び二本松訓練所で再会し、
「何かやろう」ということで、運動会を開催しました。
あとは誕生日がたまたま訓練中にあったので、
仲間に誕生日を祝ってもらったことが一つの思い出です。
やっておけばよかったこととしては、
もっと色々な方と関わっておけば良かったなと思います。
アラビア語が大変だったので、
語学の勉強を集中してやっていましたが、
あれだけいろいろな業種の人に出会える場所は少ないので、
人間関係構築をしておけばよかったとも思います。
もしそこで信頼関係を築けたら、
その出会いが、協力隊の時もそうですし、
終わった後の、自分の人生の道も開けるのかなと思います。
⑨何故受かったと思うか
一つ目は現地を想定した活動手法を面接官に伝えたこと。
もう一つは自分自身社会人としての経験がないので、
大学時代にやってきたことを、どのように伝えるか、
足りない部分をどのように補いたいかを伝えました。
⑩協力隊終了後の進路
母校の高校のサッカー部、外部コーチ(三カ月)
⇒
小学校の先生(非常勤)で、開発教育を中心に協力隊経験を伝える(九カ月)
⇒
JICA国際協力推進員(現職)
語学について
⑪協力隊の面接受けた時の語学力は?
英検準二級、TOEIC400点(大学2年次)
⑫現地で語学は通用しましたか?
アラビア語は日常会話は通じましたが、
体育の教師としての専門用語は勉強が必須でした。
⑬どのように語学を勉強したか?
毎日家で勉強するというよりは、休日も外に出て現地の人と話したりしました。
訓練所では、授業中に話すことを意識しました。
アラビア語で日記を書いて、
毎日語学の先生に添削してもらうということを、
訓練所の時はやっていました。
日本に帰ってからも続けていて、
一年と十ヶ月ぐらい続けていますね(笑)
ちなみに訓練前は、東京外国語大学のサイトでアラビア語が学べるものがあって、
入所前にそういうものを利用して、毎日一時間ぐらい勉強していました。
⑭後輩隊員へのメッセージ
自分が言うのも恐縮ですが、
人生を楽しむために、人とは異なれ!
と言いたいですね(笑)
人生は自分が主役なので。