フィリピン 野菜栽培
自己プロファイル
派遣国:フィリピン
隊次(具体的な派遣期間):2017-2(2017年10月~2019年9月)
協力隊派遣前の専門学校・短大・大学(所属学部やゼミ):山梨大学生命環境学部
応募時の資格:京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科修士課程在籍
職種:野菜栽培
配属先:フィリピン・アンティケ州サンレミヒオ町役場農業事務所
活動対象の人:町役場農業事務所職員、地域の農家
要請内容:有機農業の普及(野菜デモファーム作り、有機野菜栽培の技術普及活動)
自己紹介
初めまして。
私は2017年度2次隊野菜栽培隊員としてフィリピンに派遣されました。今は国内大学院の博士課程に所属し、アジアの有機農業政策の現場について研究しています。ですので、気持ちは今も協力隊のときとあまり変わっていないと思います。あの時も今もずっと学生です(笑)。
私は、大学を卒業すると同時に今いる大学院へ進学し、その年の夏から協力隊としてフィリピンに渡航しました。ですので、学部4年のときには大学院受験と協力隊受験を同時にしていた形になります。
当時は漠然と東南アジアの農業に向けた関心を抱きながら、国際協力の世界への就職を志していました。国際協力の世界では必要になってくる修士号という学歴。ですが、私は大学院で何を学ぼうかと考えてもよくわからなかったので、まずフィールドに出て、帰国後に大学院で自分の興味あるテーマについて改めて学び直そうという手順で考えていました。
協力隊では、主に農家さんと同僚と協力して有機野菜のデモファームを設立し野菜栽培に汗を流したり、農家さんへ技術伝達を図るワークショップを運営したりしました。
活動前半はひたすら野菜と向き合い、後半は人と向き合う期間でした。
まずはじめに
①あなたにとってのJICA海外協力隊とは
協力隊活動は、今の私の毎日のモチベーションであり続けています。今振り返っても大変貴重な経験でした。特に、私を息子のように受け入れてくれたご家族や、最後まで優しく面倒を見てくれた上司と同僚たちにもらった恩は一生忘れません。任地は第二の故郷ですので、またコロナが落ち着いたら訪れたいですし、この恩はまた違う人に還していきたいと思っています。
帰国後、協力隊活動をベースに修士論文を書き、またこれからの博士論文でも重要な位置になると思っていますので、彼らとの活動が自分の学位に直結します。つまり、これからの生き方の自分の土台は彼らとの2年間になるのだと想像しています。これからもフィリピンのみでなく、フィリピンでの経験を土台に開発途上国の農村農業を考え、また問題に取り組んでいきたいと思っています。
現地でのことについて
②現地で活動して良かったと思った瞬間
たくさんあるのですが、選りすぐりを箇条書きすると、、、、
・ただの荒地を開墾してデモファームにし、そこで栽培した野菜を州内のリゾート地のレストランが買ってくれたとき、そしてそこの絶品料理を同僚たちと味わったとき
・学校に設立したデモファームでブロッコリーやキャベツが収穫され、先生や児童が喜んでくれたとき
・配属先と小学校とのデモファーム活動が農業省内で評価され、活動報告会への招待や取材を受けたとき
・2年間共に働いた農業普及員たちが成長している瞬間を垣間見たとき
③活動で苦労or 辛かったこと、どう乗り越えたか
「働く」ことに対する意識の違いでしょうか。
私がJICA主催の会議に参加するために任地を離れていた間に、デモファームの野菜が枯れてしまったことがありました。そのときは、「なぜ野菜の管理を放置したんだ」と、一方的に怒っている私と同僚たちで喧嘩となり、私は1週間くらい家に引きこもりました。
ですが、それで腐ったら協力隊として終わりでした。お互いにより理解していくためには、コミュニケーションをとり続けることが大事だと思い直し、1週間くらい顔を見ない期間を置いて、また従来通り接するようにしました。あれからお互いの価値観の違いを認めながら信頼関係はより深まっていったと思います。
そもそも、休みの日や自分の責任外の仕事にプライベートな時間を割くことが日本では当たり前にされますが、それが普通ではないフィリピン(おそらく日本以外の多くの国)の価値観に私は学ぶことも多かったです。
私が真面目すぎる石頭の井の中の蛙だったんだと思います。
④要請内容への取り組みとその後
要請であった有機農業を広める活動といっても、内容はとても複雑です。私は山梨県の農家で育ったのですが、国内であっても風土が変われば農業はまったく違うものになります。任地では当然ながら、日本以上に考えなければいけない要素も多く(逆にやりやすいこともありましたが)、切り口は多様にあり、また何が正解かもわからない状況でした。現地の方々が毎日実践されていることを土台に、こちらが吸収する時間を大事にしました。それはいつも刺激的でした。
それでも、日本の堆肥作りや野菜の育苗など、中には現地でも参考になる知識や技術はありましたので、私は私の得意分野を同僚や農家さんたちに紹介しながら、みんなで活動を少しずつ形作っていきました。
具体的には、小学校と連携してデモファームの設立と、そこでの栽培実験、そして技術普及活動という段階に分けられます。
私たちが始めたデモファームは現地の小学校が続けてくれています。
⑤要請内容外での取り組みと展望
人との交流は時間を割いて楽しんでいました。特に現地の方々や他の国から来ていたボランティアとの交流は積極的に行いました。また、任地とは別の地域の町役場や先進的な農園に飛び込み訪問もしていました。地域のサッカーチームの練習に参加するなんてこともありましたね。とにかく人に誘われる機会があれば、まず断らなかったかと思います。
隊員間では、同じ農業隊員やカウンターパートが参加する農業研修ツアーを企画したこともありました。他の隊員の任地訪問(観光旅行)も結構楽しんでいましたね。インドネシアの野菜栽培隊員のところまで行ったこともあります。
⑥現地での活動や生活(隊員生活)で得たもの
得たものですか、難しいですね。
今の私の問題意識の根本はフィリピンでもらいましたし、冒頭にも述べましたが今こうして大学院に通って机に向かっているモチベーションもあの日々にあったことは間違いないです。
それは、最近はもうベタですが、「開発」や「発展」というものへのもやもやみたいなものでもありますし、彼らともっといろいろ何かやってみたいという好奇心のようなものでもあります。今も私を大学という場所にとどめている要因です。
また、日本以外の帰る場所も得たと思っています。
「フィリピンに行けばなんとかなる」、今はそんな気持ちがあります。
⑦新卒だから出来たと思うこと、逆にもっとやっておけば良かったこと
「新卒だから」かどうかはわかりませんが、これまでに似た経験をしたことがなかったことで固定観念に囚われない活動ができたと思います。「答え」を日本の経験に探すのではなく、現地の状況から探そうと考えることができました。でも、もっと専門的な経験や知識があったらそれができなかったのか、はたまたより良い活動ができたかどうかはわかりません。
また、自分が学生であったこともあって、多くの人に教えてもらうことに躊躇わなくて済みました。年配の方が若い人に「わからないから教えてほしい」と聞かれるとなんだか教えたくなってしまうのは、日本にも共通していると思います。学生とJICAボランティアという二つの顔をもてたことは、活動の幅を広げてくれていたと思います(その分脚で稼ぐための体力が必要になりましたが)。
協力隊全般について
⑧訓練所での感想
もっと多くの人と交流して深い話をしておけばよかったなと後悔しています。つまり、協力隊同期同士の交流ですね。
これは半分自業自得なのですが、私は当時大学院の前期課程の授業課題も抱えていたので、休みの日や夜の時間は結構図書室や自室に篭ることが多くて。せっかく色々な分野から人生の先輩方が、それも尊敬できる方々がたくさんいらしていたのでもっともっと人生観や経験を教えてもらいたかったです。
限られた時間でも交流できた方々とは今も大事なつながりになっています。
⑨何故受かったと思うか
「何もわからないので現地で考える」スタンスで最初から受験に臨んでいたからではないでしょうか。自分の中で「これだ」という強固な答えがあるとそれにこだわるあまり、活動中に押しつけてしまいがちです。それはJICAとしても求めるボランティア像ではないでしょうから、面接の場で重点的に見る志願者の資質だと思います。その点が自分とは相性が良かったかもしれません。
面接や書類の準備というのは特にしていなかったので、あとは専門の面接官との相性が良かったことくらいでしょうか。
⑩協力隊終了後の進路
今も所属している大学院に復学しました。まさか博士課程にまで進学するとは、帰国当時は1ミリも考えておらず、JICA関係で就活をするつもりでしたので、運命はわかりませんよね。今は大学院の関係の先生が取り組もうとしている、これもJICA案件でブータンに渡航するのを待っている段階です。
今いる研究科と協力隊とはとても相性がいいと思います。現に、OVも多数在籍されています。「協力隊×大学院」の流れがこれから続けばいいな、と個人的には思っています。
👆
自分のブログにもまとめました!! 興味がある方は読んでみてください。
語学について
⑪協力隊の面接受けた時の語学力は?
面接を受けた当時のTOEIC保持スコアは、確か学部2年生でとった660点でしたかね。特にそのために英語の勉強をしたことはありませんでしたが、訓練所では中級レベルだったのではないでしょうか。英語のクラスは楽しかったです。
⑫現地で語学は通用しましたか?
現地では、職場の役場関係者には英語が通じました。本当は現地語で話したかったでしょうが、私が彼らとは英語を話すので私に合わせてくれていたと思います。レベルもお互いに同程度だったと思います。
農家さんたちとは完全に現地語で会話をしていました。アンティケ州では「カライア語」という地方言語があります。決して堪能だったわけではないですが、日常生活と活動の上ではあまり困ることはありませんでした。みんな私の「カライア語」をニコニコ忍耐強く聞いてくれました。
⑬どのように語学を勉強したか?
マニラで2週間の現地語授業があります。その間に基礎の基礎は叩き込まれました。でもそれではほとんど役に立たないレベルだったので、現地に赴任してからチューターをお願いしました。80時間分(上限額あり)までJICAが費用を補填してくれたのでありがたかったです。
この授業は普段の疑問を解消したり使いたい表現を使ってみたりする場になりました。あとは普段から覚えるべき単語をメモしたり意識的に口にしたりしていました。個人的にはそれまで文字による視覚情報で覚えてきたのですが、音情報で覚える大事さを感じました。スペリングや文法はそもそも体系的になってなかったので、「話せること」が一番大事でしたね。
さいごに
⑭後輩隊員へのメッセージ
協力隊にかける思いや動機は人それぞれであっていいと思います。今回の読者の多くは学生だと思いますが、行くのが今だと感じたのなら、今行ったらいいと思います。逆に少し悩んでいるのであれば、もしかしたら今ではないかもしれません。2年は長くも短くもあります。やっぱり行くのなら充実したものにしたいですよね、頑張ってください!!